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雨竜の歴史 生活編

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雨竜市街で電気が使用できるようになったのは、昭和初期の町並にも電柱が写っているように意外に古く、1918年(大正7年)の12月に最初の電灯が設置されました。しかしながら、農村地区の電化は立ち後れ1967年(昭和42年)に国領上尾白利加地区に電気が導入され、無灯火地区が解消されるまで、実に50年もの歳月を要しました。現在では考えられませんが、中島地区では部落の人々が自力で電柱木材の伐採から電線引きまでを行い、電化を実現したという驚くべき記載があります。電気の導入は、住民生活にも影響を与え、1936年(昭和11年)に放送が流れて以来、社会の情報源・娯楽として親しまれてきたラジオから、娯楽の中心がテレビに移行されました。

電話業務は、1928年(昭和3年)に雨竜郵便局で電話交換事務が開始されましたが、器械や債券、敷設費が高額なことからなかなか普及せず、有線ラジオにより通信が行われていました。本格的に電話が導入されたのは、共同利用ながら個別の電話番号を持つ農村集団自動電話が1968年(昭和43年)に布設されてからであり、これにより当時の普及率は84%に達し、全道一、全国でも2番目にランクされ、今に言う「IT(情報通信)」の先進地でありました。

給水が開始されたのは、1973年(昭和48年)の4月のことで、当時の広報誌にも故障の続出で給水が遅れたこともあり「やっと水が出た」と住民が待ち望んでいた気持ちが書かれています。

給水開始(1973)の画像
給水開始(1973年)

交通

札沼線が1935年(昭和10年)10月3日に全線開通し、鉄道が交通手段の中心となりましたが、太平洋戦争が苛烈をきわめるようになり、軍の要求でサハリン(樺太)に鉄道を移設するため、1943年(昭和18年)10月1日に休止となり、線路も撤去されました。1953年(昭和28年)11月3日に一部が復元、1956年(昭和31年)11月16日に全線開通し、戦前の姿を取り戻しました。

札沼線復元(1956)の画像
札沼線復元(1956年)

しかしながら、国鉄の累積赤字の拡大から赤字路線の廃止案が示され、この中には札沼線も含まれており、1972年(昭和47年)6月18日に石狩沼田から新十津川間が廃止され、雨竜の鉄道史が幕を閉じました。

札沼線廃止(1972)の画像
札沼線廃止(1972年)

これによりバス運行がスタートし、車社会へ移行されるわけですが、雨竜最初の信号機が設置されたのは、鉄道廃止2日前の6月16日のことでした。
ところで、追分市街から妹背牛・深川へ、雨竜市街から江部乙へはどのようにして移動していたのでしょうか? 追分市街から妹背牛・深川へは、なんと1894年(明治27年)から橋が架けられ、陸路による交通が行われていました。何度か流出により渡船に切り替えられましたが、当時から「雨竜橋」という名で雨竜住民の生活を支えてきました。

伏古渡船場の画像
伏古渡船場

一方、雨竜市街から江部乙へは、全道一の大河石狩川が介在しており架橋が困難であったため、1965年(昭和40年)9月18日に「江竜橋」が完成するまでは、夏季は渡船で、冬季は氷橋を作り徒歩で渡岸していました。完成した江竜橋は、全長803メートルあり当時全道で3番目に長い橋でした。

江竜橋の渡橋式(1965)の画像
江竜橋の渡橋式(1965年)

このような道路交通網の整備に加え、日本の高度経済成長に伴う消費の拡大により、本町においてもめざましい勢いで自動車の普及が図られました。しかしその一方で、交通事故が激増し、1973年(昭和48年)には町内で発生した事故による負傷者は68人を記録しています。以来「交通安全宣言の町」として交通安全運動に取り組むことになります。

川上バス廃止(1986)の画像
川上バス廃止(1986年)

小さくなる雨竜

大正時代の役場の画像
大正時代の役場

自動車の普及に伴い、舗装工事など交通網の整備が急速に進められ、また電話の普及や給水事業により住民生活は大きく改善されました。しかし、整備が進むにつれて市街地区とへき地との生活格差が増大し、特に国領地区の不便さは明白なものがありました。国領地区は、雨竜市街より西方約20キロメートル離れた暑寒別岳山麓に位置し、群馬県豊受村を中心とする群馬団体が1911年(明治44年)に移住して以来、生活が営まれていましたが、その立地条件から教育や医療、行政面の機会均等を図ることは困難なため、1972年(昭和47年)11月18日に学校関係も含め14戸が雨竜市街へ移住し、集落移転が完了しました。

国領地区集落移転(1972)の画像
国領地区集落移転(1972年)

この時、国領地区には、既に1メートル近い積雪があり、広報にも「陸の孤島化を解消」と記載があるように国領地区での生活の不便さが想像できます。
また、1948年(昭和23年)から追分地区以北の行政サービスを行ってきた役場追分出張所も道路網の発展、除雪体制の確保などにより、1985年(昭和60年)3月31日に廃止されました。これらに代表されるように、モータリゼーションの進展による移動時間の短縮、通信技術の進歩による連絡体制の拡張は、開拓当初と比較して雨竜のまちをずっと小さくしました。

追分出張所廃止(1985)の画像
追分出張所廃止(1985年)

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