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雨竜の歴史 農業編

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開拓から昭和初期

開拓時使用された様式大農機械の写真
開拓時使用された様式大農機械

1889年(明治22年)に「北海道土地払下規則」により、華族組合雨竜農場が創設され、ここに雨竜の歴史が開かれることになりますが、1年目の開墾の中心は、樺戸集治監の囚人でありました。
雨竜農場では直営による大農を計画し、欧米式の農機具を導入していましたが、切り株だらけの開墾地には不適であったことや入植移民の不足により労働力の確保に苦しみ、1893年(明治26年)に解散されました。

蜂須賀農場試験水田の写真
蜂須賀農場試験水田

その後、蜂須賀、戸田、町村の3農場が開設され、開墾が引き継がれました。明治後期には、稲作が始められ、灌漑溝の整備によりその普及が図られ、大正前期には「米の雨竜」と称されるようになりました。しかしながら、当時の水稲は、気温や天候に左右されやすく1913年(大正2年)9月8日には降雹により壊滅的な打撃を受け大凶作になるなど非常にリスクの高い作物でした。

1915年(大正4年)に第1次世界大戦により好況がはじまり農作物は騰貴し、農民の現金収入が増加したことにより若干の改善が見られましたが、それも長くは続かず度重なる冷害や洪水、高額な小作料の支払に苦しみ、農民の生活は貧窮していました。農民たちは、生活の改善を求め農場主に何度も嘆願書を提出していましたが、なかなか聞き入れられず1921年(大正10年)には、蜂須賀農場で10名の検挙者を出す騒ぎが起きています。これを機に貧農に苦しむ農民による小作争議が続出することになります。

戦時下から戦後

1929年(昭和4年)の世界恐慌による不景気に加え、1931年(昭和6年)の冷害以降北海道、東北地方は4年連続して深刻な大凶作に見回れ、農民の生活は貧窮を極め、1932年(昭和7年)から全国各地で起こった米騒動により、政府が実施した「政府払い下げ米」の配給を雨竜町でも受けました。しかし、満州事変後、景気がいくらか回復し、都市や鉱山への転出者が増え、零細農家が減少したことにより、一時逮捕者まで出した小作争議も下火になりましたが、かつて争議を指導した農民組合員に対する圧迫は続き、太平洋戦争終結まで警察の監視下におかれました。

戦火の拡大に伴い雨竜でも軍隊に招集される人数が増え、161名の尊い命がその犠牲になりました。招集により働き手を戦争に取られ、農家の労働力不足が深刻な問題になり、これを補うため各地の中学校・農学校から援農という名目で生徒がやってきて農作業を手伝いました。1945年(昭和20年)に援農に入った長野県北佐久農学校の4年生47名は、農学校生徒であり、しかも上級生であったため、有力な援農隊であり、1986年(昭和61年)に再び来町し、旧交をあたためました。しかし、北佐久農学校と同時期に援農に入った北海中学の1年生たちは、「思い出したくない」「二度と雨竜へ行きたくない」と語り、受け入れ側、生徒側ともにつらい思い出となりました。

元援農学徒の来町(1986年)の写真
元援農学徒の来町(1986年)

1945年(昭和20年)8月15日、終戦を迎え復員者により雨竜の人口は急増しましたが、この年は凶作であったため、「米の雨竜」の米を作る農民も飢えていました。また、深刻な物資不足で農薬などの調達が困難であったため、その救済策としてニコチンを抽出するため葉たばこの栽培普及がなされ、雨竜でも試作栽培が行われました。

葉たばこの写真
葉たばこの試験栽培

戦後の諸改革の中でも、長い間、多くの農民が封建的圧制のもと奴隷化されているような状況の改善を目的に施行された農地改革は、雨竜に最も影響を与えました。これまで繰り返された小作争議により地主と小作の関係改善、小作農民の耕作権などの考え方が整理されてきており、昭和初期から雨竜では「土地分譲契約」を結び小作地が徐々に開放されていました。しかし、農地改革により急速に農地の開放が進み、開拓当初から約60年間続いた小作問題が解決され、時代は農地改革から農業改革へ移行されます。

近代化と現在

石狩川氾濫の写真
石狩川氾濫

昭和30年代には既にまとまった客土、暗渠排水などの土地改良事業が進み、1966年(昭和41年)に暑寒ダムが完成し、これに関連して灌漑施設の整備が行われ、翌年には20万俵という大量出荷が可能となりました。

暑寒ダム完成(1966年)の写真
暑寒ダム完成(1966年)

暑寒ダムは完成に13年もの歳月と19億円を要しましたが、できるだけ高い水温で取水するため温水取水装置が設置され、この機能を持つダムとしては、当時、日本で最大の規模であり、雨竜町全域の完全補水が確保され、水不足が解消されました。

雨竜町は、1956年(昭和31年)の7390人を最高にその後人口が減少し続けており、これに伴い農家戸数、農業人口も減少していきます。耕地面積の拡大傾向と農村労働力の流出により、農作業の省力化、機械化は必然的なものになり、1968年(昭和43年)から始まった農業構造改善事業によりトラクター、コンバインなどの大型機械の導入が推進され、農機を共同利用するための利用組合が町内各地区に26組合が組織され、近代農業の基礎が築かれました。しかし、機械化により生産力は向上したものの米の供給過剰を招く結果となり、生産調整、減反政策が行われるようになりました。

収穫風景(1970年)の写真
収穫風景(1970年)
洪水により3日間断水(1981年)の写真
洪水により3日間断水(1981年)

米の生産調整、減反政策により、所得維持のため米に変わる作物の生産が必要となり、メロンが栽培されるようになりました。雨竜のメロンの作付けは、1967年(昭和42年)頃から始められていましたが市場に販売する農家は少数でした。しかし、1972年(昭和47年)に田中角栄首相が列島改造論を発表し、消費者の所得が倍増すると贈答品としてメロンの需要が増大し、雨竜でもメロンの栽培が盛んになり「暑寒メロン」として広く関西市場にも出荷されるようになりました。

暑寒メロン出荷(1983年)の写真
暑寒メロン出荷(1983年)
追分市街の洪水(1988年)の写真
追分市街の洪水(1988年)

現在、農業を取り巻く環境は、従来からの高齢化や担い手不足のほか、米の過剰基調による米価の低迷、規制緩和に伴う産地間競争の激化、消費者ニーズの多様化など非常に厳しい状況となっており、「米の雨竜」の生き残りのために営農指導の充実と土壌分析による地力増進を目的に1995年(平成7年)に農業総合管理センターを建設、1998年(平成10年)には玄米を低温で保存管理し注文に応じて製品として出荷する雨竜町ライスコンビナートが完成しました。

ライスコンビナート完成(1998年)の写真
ライスコンビナート完成(1998年)

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