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雨竜の歴史 教育編

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1894年(明治27年)滝川説教場に在勤していた藤谷大宣が旧市街に説教場を開設し、寺子屋教育を始めたのが、本町の教育のはじまりとされており、最初に小学校ができたのは1898年(明治31年)になってからであり、南竜尋常小学校として児童数77名の規模で開校され、移住民の増加に伴い面白内、渭の津、川上に簡易教育所が相次いで設置され、渭の津と川上は1917年(大正6年)に尋常小学校へ昇格しました。一方、南竜尋常小学校は1906年(明治39年)6月に高等科が併設され名称も雨竜尋常高等小学校と改称しました。ところが、追分市街に雨竜尋常小学校が既に開校していたため、この改称により非常にややこしくなり、空知支庁の辞令が間違って交付されるなど公文書の誤記が多発し、1926年(大正15年)に雨竜尋常小学校が雨竜橋尋常高等小学校へ改称されるまでその紛らわしさが続きました。この頃の学校は、町村の財源不足により教育費の確保が困難であったため、教室は住民の寄附により増築されましたが、教員への給与はごく僅かなものとなり、その結果教員は、より良い環境を求めて短期間で転勤してしまい、教員不足が慢性的な状況となっていました。しかし、校下の住民にとって学校は、集会所的な役割を担っており、記念式典や各種集会、住民検診などの会場として使用され、地域の総合文化センター的存在であり、学校行事への参加も積極的で特に運動会は地域の最大イベントとして受けとめられていました。また、1923年(大正12年)に雨竜実業補習学校が、翌年には追分女子実業補習学校が開校し、雨竜尋常高等小学校の高等科の3つが上級学校として存在していました。しかし、雨竜には中学校が無かったため、希望者は最寄りの滝川中学校へ進学しなければなりませんでした。

戦時下から戦後

小作争議が深刻化するなか、1930年(昭和5年)に争議小作人の子弟34名が休校しました。当時、小作争議に関連して休校することは「同盟休校」と呼ばれ、大量の検挙者を出した1932年(昭和7年)の蜂須賀農場での小作争議の時も行われました。その一方で1926年(大正15年)に16歳から20歳までを対象にした青年訓練所が設置され、軍隊宿泊見学や野外戦闘訓練、防空演習などが行われるようになり、1935年(昭和10年)には、「青年学校令」が定められ、実業補習学校と青年訓練所はすべて青年学校と改称統合され、軍隊の予備学校的機関となり、戦況の悪化に伴い学校の軍隊化が進みました。太平洋戦争が勃発した1941年(昭和16年)には「国民学校令」がだされ、学校教育のいたる所で戦争の影が見えるようになり、勤労動員として食料の生産や金属の献納などが学校単位で行われるようになりました。

1945年(昭和20年)8月15日に日本は終戦を迎えましたが、戦争によってもたらされた教育の混乱は、招集による教員の不足など雨竜にとっても例外ではありませんでした。しかし、その一方で確実に民主的教育制度が導入され、1947年(昭和22年)3月に日本国憲法の民主的な理想を実現するため、教育基本法と学校教育法が制定され、義務教育年限も現在の「六・三制教育」として9年間となりました。当時の学校は大正時代に拡充されたものがほとんどであったため、従来義務教育が6年であったものが9年に変更されたことにより、児童、生徒数の増加に対応できず、雨竜の民主教育はまず施設問題を解決しなければなりませんでした。こうした流により、新校舎の建設が進められましたが、校舎建設費用の約60%を住民の寄附で賄い、建築に際しても労働奉仕として住民の協力により、1948年(昭和23年)から翌年にかけて各地区の学校が竣工しました。また、川上分校は通学距離が長いなどの理由で川上小学校として存続されることになり、牧岡地区でも旧満州からの引揚者の入植により、1950年(昭和25年)に牧岡小学校が開校しました。児童数の激減より廃校となっていた国領小学校も1945年(昭和20年)から再開されており、町内には雨竜小学校、雨竜橋小学校、川上小学校、渭の津小学校、牧岡小学校、国領小学校、雨竜中学校、川上中学校、国領中学校の9校が設置され、1961年(昭和36年)には1682名の児童、生徒数を記録しました。

現代へ

昭和40年代にはいると、児童、生徒数が減少傾向になったことや正規の単式学校と小規模学校の単級複式学級による教育水準の格差の問題、老朽校舎の維持に多額の経費を要するという財政的な事情もあり、学校統合問題が取り上げられるようになり、1971年(昭和46年)に雨竜小学校統合校舎が完成し、翌年国領地区の集落移転に伴う国領小学校の閉校により、雨竜の小学校は一校になりました。

雨竜小学校統合校舎完成(1971年)の写真
雨竜小学校統合校舎完成(1971年)

また、中学校も1974年(昭和49年)に統合校舎が完成し、現在の姿になりました。この統合の動きに合わせて完全給食の実施やスクールバスの整備が行われました。

雨竜中学校統合校舎完成(1974年)の写真
雨竜中学校統合校舎完成(1974年)

養護学校は、1947年(昭和22年)の学校教育法によって盲・聾学校とともに義務化なされながら、その実施は長年見送られていました。しかし、父母の強い要望を受けて1974年(昭和49年)に義務制を実施することが決定しました。当時、空知管内では、精神薄弱の児童、生徒を教育する特殊学級は小中学校合わせて97学級を数えましたが、中学卒業者の社会的自立と職業的訓練を行う高等養護学校は皆無であり、養護学校の設置は、父母や教育関係者の期待と過疎化防止の対応に追われる町の現状にも合致し、長年に渡り積極的な誘致運動が展開され、1984年(昭和59年)に北海道立雨竜高等養護学校として開校しました。

養護学校開校(1984年)の写真
養護学校開校(1984年)

1996年(平成8年)には山田洋二監督の映画「学校2」の舞台となり、全国各地で大きな反響を呼びました。

映画「学校2」雨竜ロケ(1996年)の写真

映画「学校2」雨竜ロケ(1996年)

この作品は日刊スポーツ映画大賞石原裕次郎賞を受賞し、翌年には山田洋二監督からその賞金をもとに学校へ記念碑が寄贈されました。同校は、2003年(平成15年)11月に開校20周年を迎え、清掃や花壇整備などのボランティア活動、町内事業所での職場実習など地域に根付いた教育方針により、住民とふれあいながら活発な活動が続けられています。

雨竜小学校歩くスキーの写真
雨竜小学校歩くスキー
雨竜小学校土俵完成の写真
雨竜小学校土俵完成

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